私の求道において『妙好人』と呼ばれる浄土真宗の先達が残した言葉は大きい存在だった。
妙好人とは、ことばではいいつくせないほどうるわしい人ということで、念仏者を讃える賛辞です。
善導大師がはじめて用いられ、『観無量寿経疏』に「念仏者は、分陀利華なり」とたたえられたのを注釈されたところにでております。
(下記書籍から引用。非常によい本。)
妙好人とは、蓮華の中でも最も高潔な純白の蓮華(分陀利華)に例えられ、他にもさまざまな言葉で賞賛されている。
・人中の好人
・稀有人
・上々人
・最勝人
それらの方が残されたことばや体験を聞くことで、
「どうやったらこんな風に仏法を味わえるようになるんだろう。」
「こんな立派な、瑞々しい法の喜びを私も味わってみたい。」
「この人も求道中は、私と同じように聞けぬ聞けぬと泣いておられたのか」
と励まされ、慰められ、奮い立たせられたことを覚えている。
語れない体験
私がかつて所属していたS会という富山に本部を置く浄土真宗系新興宗教においては、
歴代の善知識は自己の体験を語らなかった、
体験は一人一人違うのだからそんな体験を聞く必要はないと喧伝している。
私はこれが詭弁であると断言する。
その体験を否定し、善知識の話のみでよいというのであれば、なぜS会でも妙好人の話を紹介するのであろう。
「仏法聞かせてもらったなら言わずにおれません」
としきりに言って人集めをさせているワリには、聞かせてもらった獲信の喜びを語る人は一人もいないのはなぜか。
結局のところ、阿弥陀様と出会っていないから、自らの体験を話せないだけである。
本音を曝け出してみれば、自分にはない、白蓮花のようなうるわしい信心を得た人の体験談が聞きたいでしょう。
そんな風になりたいと思って求めているのだから。
伝わってきた歓喜の歴史
浄土真宗の法が今日まで相続されてきたのは、先に仏法を喜んでいる人の姿や、体験談や、味わいに触れ、それに続く者がいたからだ。
それはまるで法が、人から人にそのまま手渡しで受け取るようであり、
そのようにして紡がれてきたのが浄土真宗の歴史だ。
(これは善知識だのみの異安心とは全く異なる)
法の相続は、法然上人から親鸞聖人だけのものではない。
偉大な歴史書には1ページも現れてこない、何の特別でもない凡夫同士が出会い、阿弥陀仏の本願に目覚めていける教えが今説かれている。
しばらくは妙好人のことばを紹介することとしたい。
『仏法だにもあらば、上下をいわずとうべし。仏法はしりそうもなきものがしるぞ』
「仏法のことについては年上年下とか身分とかにかかわらず尋ねなさい。仏法は、知って
いそうもない人とが、実は心得ているものだぞ」
『蓮如上人御一代記聞書167条』