仏法聞くのが怖い人と伝えるのが怖い人

私ごと

近況報告

8ヶ月前に更新した一つ前の離婚記事ではめっちゃネガティブな感情を発揮したけれど、最近、めっちゃいい感じ。

体重は15kgぐらい減量して適正体重に戻ったし、ダイエット目的でマラソンを始めて今年の5月には42.195km完走。

走らないと違和感を覚えるくらいに走るのが習慣化し、2日に1度は10kmくらい走っている。

バツイチになってから気力・体力面の両面で力強さを取り戻し始めた感がある。

『あくれる君、痩せてからなんか最近いい感じだね。』と同僚に言われるほど、今ええ感じ。

離婚協議していた昨年後半は酒量が異常に増え、吸えもしないタバコにも手を出したが、やっぱ病んでたね。

あまりにも自分らしさを見失ってた。

しまいには走るのに邪魔だから酒を止めようかと、Youtubeで断酒の動画を見漁ったり、こんな本を買う始末。

『あくれるさん、急に健康になりすぎです。どこ目指してるんですか???』
と会社のチームメンバーには若干引かれている。

しかし何よりも心地よいのは、仏法において自分の心と向き合い始めたことだ。

仏法を聞くのが怖い人

求道中も自分の心とは嫌でも向き合った。
ここでの「自分の心」とは、阿弥陀仏の本願を疑う「自力の心」である。

正しい教えがどこかに無いか!との思いで親鸞会を飛び出し、
それを説かれる善知識とお同行に出会えたのに、いつまでたっても私の心は変わらんまま。

「聞きたい、聞きたい!」と願い、法座に足を運ぶも一向に聞ける気がしない。

それどころか法話を聞かせてもらう度に見えてくるのは恐ろしい己の自性。

「こんな心、俺の中にあったんか。このまま聞いて行ったら、
この恐ろしい心が飛び出してきてしまう。こんな心を他の人に知られるワケにはいかん。」

仏法を聞きに行く度に泣いていたのは、聞けない自分が情けないだけではなく、
これ以上自分の恐ろしい心を見せないでくれという逃避でもあったのだ。

仏法を撥ねつける、絶対に聞いてやらんぞという自力疑心の塊がイヤほど見せられてしまう。

最後の方は求道にも疲れてきた。

『その仏法聞けると思う手を離しなさい。』

と同行に勧められる。

「離したくても離せないんですよ!離してしまったら、本当に堕ちて行かねばならない!
怖い!怖い!
もう自分では離せんから、頼むからだれかこの手首切り落としてくれ!」と本気で思った。

仏法を聞きたいと願いながら、仏法を聞くのは心の底から恐ろしいと思っていたのだ。

ま、最後は阿弥陀さまの利剣でズバっと切り落とされたけどね。

それまでは本当に仏法聞くの怖かったなぁ。

仏法を伝えるのが怖い人

聞くのは怖いけど、仏法を伝えたいという思いは信前信後、変わらず持っていた。

分からんなりに、「この教えは本物や」と根拠の無い確信はあったからね。

問題は信後の葛藤。

こんなブログを始めるくらいだから、やっぱり「仏法聞いて欲しい」の信念が私の中に確固として存在している。

しかし、ブログの更新ができない。記事を書こうとすると手が止まる。怖い。身体が動かない。

華光会創始者、伊藤康善師の、本願聞いたと思っても3年くらいは様子を見よ。
(間違ったものを握っているかも知れないからね)
と言われた3年がたっても全然変わらない。

自分が仏法を聞かせてもらう分には、全然怖くないどころか、
生きている中で一番楽しく、幸せな時間だ。

阿弥陀さまから本願を聞く耳をいただいてからの聴聞は本当に幸せ。
何の気兼ねもなく、肩肘張らず、本願の流れに身を任せてラク〜に聞かせてもらえる。

ただ、人に伝えるとなると急に身体が強ばる。怖い。どうして?

華光の聴聞会場だと、場の安心感があるから、億せず法を勧められるんだけど、
いざ私個人で仏法を伝えるとなると、手が動かない。

聞きたいハズなのにできない。伝えたいハズなのにできない。

原因は過去の自分にあった。

それは真宗カウンセリングでの学びや、心理学の勉強を進める中で気づけたことだ。

読んだ中で刺さった心理学の書籍はこのあたり。

特に3冊目は良かった。

「本当の自分がわかる」とか、「すべての悩みを解決する鍵は自分の中にある」とか、
いかにも仏教的だよね。

そう。

阿弥陀さまが『必ず本願聞せてみせる』と誓われるのに聞けないのは自分が邪魔しているだけだし、

『先に聞かせてもらったんなら、伝えていかんならんよ。』

と先輩同行に勧められても動けなかったのは、自分の心に問題があったからだ。

結局、私はずっと仏法を伝えるのが怖かった。

なぜなら親鸞会時代に間違ったことを伝えてしまって傷ついてたから。

私は20歳で親鸞会に入会してから、講師部員に言われるがままに、間違った教えを伝える活動に従事してしまった。

そのことが、思ったより自分の中では大きなダメージを受けていたと気づけた。

結局親鸞会を辞める時に、「俺はとんでもない組織の活動に加担してしまった。」
とひどくショックを受け、それを癒すことなくここまで来てしまったのが原因だった。

「俺は間違った教えを説く組織にいた過去があるから、私は正しい教えを説くことができない。
俺が仏法を伝えると人様に迷惑をかけてしまうんだ。」

この影の信念の存在にようやく気づくことができた。

仏法聞いて喜んでいる自分の中に、未だに「仏法聞きたい。本当の教えを知りたい。」
と膝を抱えて泣いているあくれる青年がいたんだ。

自分自身との会話

「お前、そんな所で泣いていたんか。気づいてやれずにごめんな。仏法聞きたいと思っているんやな。」

『そうや。俺はいつになったら後生の一大事解決できるんや。
間違った組織に入ってしまって、人様に迷惑かけてしまって申し訳ない。
でも仏法聞かせてもらいたいんや。
いつになったら本当のこと教えてくれる先生と出会えるんや!』

「人様に迷惑かけてしまったと思ってるんやな。そうやな。それは償っていかんならんな。
でもな、君はこれから、本当に仏法喜んでる先生と、東京で喜んでいる元親鸞会の先輩と、地元の飛騨で育ててくれる先輩同行と出会えるんやで。そこで思いっきり仏法聞かせてもらい。
本当に喜べるところまで、ド真剣に仏法聞かせてもらい!俺は今、腹一杯、阿弥陀さまの本願に満足しとるよ。」

『…そうか…聞かせてもらえるんか…そうか…』

自分の心の中で、自分を偽らずにこんなやりとりをした。

あぁ、すっきりした。

正しい仏法を説けるかどうかは知らんけど、
今、私が喜んでる仏法は説けるなと腹に落ちた。

心の中で悲しんでいるあくれる青年も、そのままいてくれていい。否定もしない。住民税も取らん。

親鸞会の活動で傷ついた私も、仏法伝えたいと思っている私も、それひっくるめて阿弥陀さまの願いがかかった私だ。

そのまんまで、今、仏法の何を喜んでいるかを出していけばいいだけ。

正しいか正しくないかは、聞く人に任せる。
教学的に正しいこと・小難しいこと言うのが信心獲得でもないし、私の役目でもないし。

こんな感じのやりとりができたから、ようやくブログの更新ができた。

華光会でカウンセリングを教えてもらえてなかったら、ここまで自分の心と向き合えなかっただろうな〜。有り難い。

ちなみに仏法を聞きたいと願う人は、ぜひ、本願喜んでおられて、かつカウンセリングの技術のある先生の元に足を運んで、自分の素直な心を聞いてもらうことをおすすめします。

人に話を聞いてもらうことで自分でも気づかなかった自分と出会えます。私もそうでした。
難しいお聖教や仏教ブログを読み漁っても、結局よく分かんなくなっているでしょ?

終わりに

こんな感じで自分の心と向き合い始めて良い心の変化がありましたと伝えたい記事でした。
記事としてはぜんぜんまとまり無いけど、復帰戦はこんなもんでしょう。また次回。

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